遺跡めぐり - 加曽利貝塚と坂月川周辺
◇ 2000年12月3日、加曽利貝塚と坂月川周辺の遺跡を探索しました。

地図はこちらです 、詳細は「歩く会」へリンク

日 時  : 12月3日(日) 10:00〜12:30
集合場所:  加曽利貝塚博物館前
コース  : 加曽利貝塚見学(北貝塚及び南貝塚) → 坂月川散策 → 滑橋貝塚 → 小倉台市民の森(小倉台広ヶ作貝塚を紹介)
 貝塚の断層を見て、北貝塚と南貝塚の貝層の意味の違いを考察し、貝塚中央の空間の役割に関する考えが述べられました。貝塚だけを保存するのではなく、周辺の集落を含めて縄文時代の生活をとらえなければならないため、加曽利貝塚を中心とした「縄文の森」なる構想が練られてます。

左: 10:00、加曽利貝塚博物館前に集合。
約40名の参加者が集まりました。

右: 北貝塚の貝層の下にあった住居跡を保存しています。特殊な薬剤(註1)処理により、土の形を崩さず、湿度を一定にして発掘時の状態を保持する方法が取られています。
左: 北貝塚貝層断面観察施設。北貝塚は縄文中期(5000〜4000年前)を中心に作られた貝塚です。

右: 貝層断面です。ハマグリは小ぶりのものが多く、イボキサゴは少しずつ塊を作って貝層になっています。 貝の成長線を観察すると、春から夏に貝を採取していたことがわかる。
左: 南貝塚貝層断面観察施設。南貝塚は縄文後期(4000〜3000年前)を中心に作られた貝塚です。

右: ハマグリは比較的大きなものが多く、種々貝が層状になっている。貝の成長線を観察すると、1年中貝を採取していたことがわかる。イボキサゴが粉砕されている貝層もブロック的に存在します。
左: 南貝塚の中央にて。 四方を見渡すと小高い貝塚の貝層が囲んでいる。貝塚の中央には意味のある遺構はない。この場所は共同作業を行ったとの説があったが、現在は否定されている。神聖な場所でなかったか?土壌の脂肪酸分析を行えば、風葬などが行われたことが判るかもしれない。

右: 南貝塚から古山支谷へ。春になると人知れぬ草花が咲きます。遺跡を歩く際の楽しみにすれば趣向が加わります。
左:古山支谷に降りたすぐ南に、入り江のような小さな谷があります。縄文時代は貯木場だった?

右: 坂月川(古山支谷)のほとりで講義。縄文中期/後期には、海岸線はパルコから県庁あたりにありました。坂月川を利用して、丸木舟で海まで行き、海産物を取りました。この地点でボーリングを行い、古代の花粉分析を行いました。縄文後期には針葉樹は少なく、アカガシ属/シイ属/クリ属/ケヤキ属等の花粉が存在しました。
左: 坂月川河畔を歩き、滑橋貝塚に向かいます。


右:滑橋貝塚を坂月川を渡る橋から見た光景です。
左: 滑橋(なめりばし)貝塚の東を通る道から貝塚を見上げます。中期後半〜後期前半の遺跡。古谷支谷を挟んで加曾利貝塚の対岸、やや北にある。

右: 小倉台市民の森を歩く。南に進むと、滑橋貝塚の貝層を見ることができます。また、ここの東には広ヶ作遺跡があり、縄文時代の住居跡が発掘されています。
「北貝塚 vs 南貝塚 : 北貝塚が形成された頃は、貝を採取する浜が狭く、貝が充分に成長する余地がなかったが、南貝塚形成時期は、貝を採取する漁域が広く、成長した貝を採取することができた。南貝塚の貝層が層状であるのは、貝をまとめて貝塚に置いたことを物語っている。「ただゴミとして捨てたのではなく、自分達の栄養となってくれた貝のなきがらを貝塚に置いたと考えられる。」との話が、講師からありました。

註1:住居跡群観覧施設の説明板に次の文があります。
「1991年から最新の薬の実験をはじめました。これまでのものは、土の表面に皮膜を作つて固めるものでしたが、”新しい薬剤”は、土に含まれる水をコントロールすることを目的としています。湿つた土は崩れません。つまり、乾燥しない土に変える薬剤です。」
 小輩は、”新しい薬剤”は保湿剤だろうと想像しています。紙オムツなどに使用される吸湿の高い架橋性ポリアクリルアマイドや澱粉を架橋させたポリマー等と想像しています。このポリマーは保湿性が高いため、砂漠の草原化に試用されている例もあります。


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 加曽利貝塚に関する簡単な説明が、HP「貝塚町の貝塚」にありますので、ご参照ください。

12/3は、曇天で、きれいな写真が撮れなかったことから、風景画については後日入れます。